「宿題らぼ」故・藤原弘美さんの想い

カテゴリ:暮らし

晴れた秋の夕暮れ時
ひと知れず繰り返される。

落陽は全てを焼き尽くす炎のようにも見え、手の中に灯るマッチの火のように儚くもみえる。
空の火は、山の峰々、小さな木立、電柱、民家、無機的有機的な物全て等しく赤黒い輪郭だけを浮かび上がらせて、瞬く間に夜のしじまに消えてゆく。
その様もまた、存在するすべてを讃えるようにも見え、永遠ではないいつかは尽きる虚しさも思わせる。
誰でも一度はこの夕陽の前に立ち、自分や誰かの人生を重ねたことがあるのではないだろうか。
同じように私もこの落陽の前に立ち、ひとりの女性のことを想う。

藤原弘美さん、2019年10月25日享年62歳
「せめて2シーズンは暖めてやりたかった。」弘美さんの夫であり誓行寺のご住職でもある公明さんが言葉を洩らす。
というのも、昨年秋に病と闘う弘美さんのために急遽設置した薪ストーブにあたたかな火が灯るわずか3日前の旅立ちだった。
1年前、「最近ピザにはまってるから食べに来てください。」といつもの丁寧なメールのお誘いを受けて作業の合間に弘美さんの家を訪ねた時、煌々と燃えるその暖かな薪ストーブの上に趣のある南部鉄瓶を乗せてコーヒーの湯を沸かしてくれた時のことが浮かぶ。その時も弘美さんは今の子どもたちの置かれている現状について、想いを止まることなく吐露されていた。弘美さんはその時鉄瓶を「重たいから持って」と言っていたが、死のその日まで病名を知らなかった私は何も不思議に思わなかった。
 私だけではなく、息子娘公明さん義母以外、自分の両親にさえ亡くなる4日前に病院で初めてことを伝え、家から一歩外に出れば気丈に振る舞い、弱った姿は決して誰にも見せず、多くの生前関わりのあった方々は訃報を聞いて初めて知り、まさかと信じられない思いでいた。

弘美さんは滋賀県高島市の小学校教師として生活のほぼすべてをその仕事に注ぎ込み、後半は特別支援学級も受け持ち60を前に退職。
私が出会ったのはもう退職後の亡くなるたった2年ほど前で、会えばいつもハツラツとした笑顔と親しみを込めた声をかけてくれた。
「地域で子どもたちの遊びや学びの環境をより良くするために何か出来ないだろうか」という漠然とした私の相談にも大きく頷き賛同してくれたのも、弘美さんが最初の人だった。
子どもの教育や子どもを取り巻く環境に対して、持ち前の頭脳明晰さに加えて経験で培われてきた示唆に富んだ様々な見解をもち、そして何よりも、自分が関わってきた生徒たちやマキノの子どもたちの将来に対し、燃える空のような熱い想いがあった。まさに打てば響くとはこういった人をいうのだろう。

弘美さんの口癖は、「どんなことでも自発的な勉強と実体験は将来の夢を大きく広げてくれるから」そして、「幼いうちに少しでも自分で机に向かう習慣をつけてやりたい」。それにまつわるエピソードを多く持ち、これらの言葉は話しの節々に胸の奥から溢れるように何度も口にされていた。
そうして、子どもの心、親の心に寄り添って何か役に立てることが出来ないか、と始まったのが「宿題らぼ」で、小学校が終わったら寺子屋のように宿題を持ち寄り、基本は各自宿題に取り組み、つまずけば弘美さんが1対1で指導してくれる。帰り際には弘美さんからそれぞれの親御さんへ、このお子さんはどんな所が強みで、子によればどう伸ばしていけば良いかまで具体的に小さなメモに書き込んで渡していた。

その時まさか、すでに余命宣告を受けていた時期を越えていて、腹膜癌により日々圧迫してくる腹部の痛さ、それに勝る自分の身体を通して感じる死と隣り合わせの恐怖と闘い、それでも苦しい素振りは何ひとつ見せず、会えばひたすらマキノの子どもたちの将来を願っていた。

私の子も、亡くなる2ヶ月前まで数回、弘美さんのお誘いでごひらがなの個人レッスンを受けさせていただいて、今手元には、「時間がないから」とせかされて作ったひらがなカードと、「ご褒美用に用意していた」と後日私と歳の変わらない娘さんから受け取った封を開けてないままの飴玉袋が残っている。
手作りの人参ケーキをきっかけに出会った弘美さん。いつも子どもたちのお祝い事には温かい手作りケーキを持ってきてくださった。いつか、お礼に子どもたちが焼いた人参のパンケーキと拙い似顔絵付きの手紙を添えて持って行けば、しばらくして少し痩せた様子で姿を見せ、それでも嬉しそうに受け取り、保育園に向かう私たちの影が見えなくなるまで玄関に腰をかけ見つめていた。

晩年のとても短な時間だったとはいえ、私の心に多大な影響をくれた弘美さんのこと、そして振り返ればまだ移住してたった6年弱の間でも、このマキノで数々の胸を打つ出来事が思い出される。それら全てを一緒に見てきた家族へ、いつでも思い出せるように、もしくは子どもたちが大人になった時、自分たちがどんな子ども時代をマキノで過ごしたのか改めて出会えるように、できることなら形として残せないだろうか。
あらゆる出来事を記録的に、それに伴いゆっくりながらも時代と共に変わってゆくマキノの背景やそこに居た人たち、きっとその時しか感じられないような純粋な感動や想いをいつか振り返れるように、まとまりなく拙い物だとしても、長い長い日記を書くように綴っていく時間がほしい。

2019.11.20