ひとつ、ふたつ、みっつの背中

カテゴリ:暮らし

ひとつ、ふたつ、みっつの背中

息子がふと、この腕の中からすり抜けていくように感じるときがある。
まだ待って、と手を伸ばすものの、少年を思わせる涼しげな顎、身体を動かすたびに美しく波打つ筋肉、女親には見渡せぬ灯台の足場に立っているような気がして、伸ばした手を空で握りしめる。

といっても息子はこの春で人生4年生。
まだまだおぼこく、お蚕から紡いだままの糸のような素朴さと神秘性をまだ背中に張り付けて歩いている。

その小さな背中を見つめて4年目。
今は背中がふたつになった。
上と下で合わせて8年通う、保育園へと続く道。

大人の足で5分足らずの道を、お迎えの後はゆっくりゆっくり手とめ足とめ1時間ほどかけて帰る。

冬、雪の上を転がりながら帰るのや、
秋の、柿や柘榴をほうばりほうばりの帰り道もよいもので、
今夏も間近の帰り道は、小さな生き物たちの息吹に満ちている。

田にはおたまじゃくし、びっくりして草むらから飛び込んだバッタたち、
野道にはタンポポやカラスノエンドウの笛、
畑の幸は喉を潤し、
田にひく水は川になり、木を渡しただけの橋を渡ったら水面に目をこらし、魚に蛙、タニシに喜び、
大きな蕗の葉は突然の雨の傘になる。

春、雪が溶けたばかりのひと冬越えた農道や田んぼは殊更ふわふわしていて、雪と土の間をモグラが土と間違えて這った道があらわになり、あの小さな手でこんなに掘り進むのかと親子で嬉しくなるのだが、今でも穴を見つけるとモグラや蛇はおらぬかと息子は木でほじくる。

そうしている間に日がかたむきだし、暮れていく1日をとっぷり全身で味わう。

たのしいなぁ

今この時間を一番贅沢に噛みしめているのはわたしだろうと思う。
まだ振り返ることの知らないふたつの小さな背中を毎日見つめながら歩く。
家で仕事をしているわたしにとってこの帰り道は、ふたりの子の母に戻ってゆく大切な時間。

呑気な私たちをよそに、このところ夫は展示会に向けての作品づくりに忙しい。

先日は長野の松本クラフトフェアにて、来週には京都の高島屋での展示。
普段マキノの工場でひたすら黙々と作業をしている夫、言葉数は少ないひとだけど、来てくださる方々との作品を通じた交流がどれほど夫の心の支えになっているか。

展示会から帰って来て、疲れた、、と言いながら、あんな人が買ってくれた、こんな人がこんな言葉をかけてくれた、とポツリ、ポツリと呟く。その横顔からでもわかるが、眼が活きている。

これだけ「モノ」と言われる物に溢れる時代に、人同士のように心に触れた物との「出逢い」を喜んで、言葉にして夫に贈ってくださった方々、心から、
ありがとうございます。

自分も機を織り、拙くも物を作る身としては、作品は裸を曝け出した分身のようなもので、逃げも隠れもできない覚悟がいる。
まだボソボソと多忙にかまけてくすぶっている自分に比べ、一家の長となり、その覚悟に挑む道を選び進む夫の物言わぬ背中を、
これまたわたしは眺めながら歩いている。

2018,6.7