りんごがひとつ ここにある

カテゴリ:暮らし

先日のこと。

創士がりんごをかじっている。
秋の柔らかな陽射しの中、シャクシャク小粋な音を立てて赤く熟れたりんごをかじっている。
熊の子みたいな千歳が近寄ってきて、短い首をかしげてりんごを覗き込みころころ笑っている。

りんご
なんて美しい。
そのままでも、
かじられて歯形がついたその姿も。

リンゴ

リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

詩人・まどみちおさんが心を震わせたひとつのりんごが、今私の眼の前にも在る。
りんごはまぁるくひかり、この景色も眩しく、まぁるい。

ものが光を受けて影を落としているさまは、ものの存在感を引き立たせる。
形態、重量、時にその中身、歴史、そのものの辿ってきた道のりまで垣間見える時もある。
まどさんは蟻が影を落として歩いていることを発見して感動している。
こういう眼を自分も幼い頃持っていたことを、今子供と一緒に暮らしながら思い出していると、あの頃の自分から随分と遠くまできちゃったな、と 思う。

我が家は、夫山本が少しずつ家を直しながら、家具やカトラリー、照明など、夫の作ったものに囲まれて暮らしている。
まだまだあばら屋だけど、私たち家族にとっては温かく居心地の良い最高の棲み家。
木目の荒い楢材の床は、子供達の裸足の足音を感じさせてくれ、樺材のテーブルは日に日に色濃く艶っぽく重みを増すようだ。
椅子は、家族それぞれこの椅子じゃないとダメ!と、各自愛着を寄せている。
そのものたちが毎日琵琶湖の遠くから射し込む陽を浴びて、ただ、在る。

もう帰れない森のことを思い出しているのだろうか?
この賑やかな暮らしを一緒に楽しんでくれているのだろうか?
静かな佇まいをして、いつも同じように在るものたち。

こういう見えない声と共に暮らすことに憧れてここまで来たけれど、
この声は子供達の耳に心に届いているのだろうか。

見えないものを見る心を子供の時分にたくさん養ってやりたいと思う。
いや、違うな。
子供はそもそも持っている。

「せんせ、たいようさん すわってる」

染織の弟子入りをする前の1年間、ご縁をいただき保育園で働いていた時に出合った2歳のいっちゃんが教えてくれたこと。

保育園の、賑やかに脱ぎ散らかされた下駄箱の隅に木のベンチがあって、
見るとそこに夕方のオレンジ色した太陽が射し込み、あたかもベンチに礼儀正しく腰を垂直に曲げて腰掛け、そこから園庭で遊ぶ子供達を微笑みながら見つめているように思えた。

それも秋の陽射しの中の出来事だった。

当たり前の日常が、どれほどの不思議と様々な恩恵を受けて成り立っているか、
こういう儚く柔らかな陽射しの日は色々思い出してしんみり思いふけってしまう。

子供の視野は狭い。
でも、深い。
あっちこっちへどこまでも広がる深遠の海をもっている。
たった数歩外に出るだけでどれほどのワクワクに満ちているかをよく知っている。
その喜びを一緒に分かち合いたいと、せわしない3歳の創士先生の後を毎日ヘコヘコついて歩く。

「美は見つけた者のものである」

弟子の時、蒼く揺らめく藍甕を混ぜていると、そばで志村先生が呟かれた言葉。
当たり前の日常の、美しいものもワクワクすることも、それに気づいた者だけのもの。
子供と一緒に毎日見つけて、その度に馬鹿らしいほど大げさに感動したいと思う。

見えているけれど見えないものの声に耳をそばだてて、
ひとつひとつ小石を拾ってはポッケに大事にしまうように、このたわいない日常を楽しんでいる。
もう二度と、落とさないように。

りんごは丸かじりがうまいよね。

2017.11.22