この根に注ぐもの
2018 / 10 / 22カテゴリ:子供
秋は
秋はいつも優しい。
夕暮れ時の空は殊更優しい。
刻一刻と変わってゆく薄紅と薄縹の織りなす空は瞼にじっと焼きつき、目を閉じても情景を浮かび上がらせる。
半分の月、カラスが群れをなして高く高く飛ぶさま、ほっぺを赤くして駈寄る子
外で遊んで冷え切った身体でも、秋の記憶はどこかひとの懐のぬくさを感じさせてくれる。
「本は誰かひとが書いたということを知って以来、私は本を書く人になりたいと思ってました。」
「本があまりに素晴らしいものだったので、ひとが作っているとは思えず、神様がくれたものだと思っていた。」
絵本作家M.Bゴフスタインのこの言葉に出会った10年ほど前、
例えば1冊の本を読みふけりながら、古い建物のきしむ廊下を歩きながら、
差し出された料理と器を眺めながら、静かに音楽を聴きながら、
そういった当たり前のように在ったものをひとつひとつ拾い上げながら、
計り知れない時代背景と作者の深奥な人生、その中で何かを生み出す行為、その造形物が
いかに尊いことかに改めて気づき、深く感動した記憶がある。
自らの実感を持って、そのものの輪郭を浮かび上がらせること。
それは、自分がここに在ることを確かめる喜びの声のように思う。
今息子と週に一度、二人だけで過ごしている。
年少クラス男子6人の中ではなかなかのやんちゃ者。先生の手を焼かせている。
色々な方からアドバイスをいただくように、また、そうしてしっかりしてきた子供さんを見ていたら、
本当は、社会的なルールを身につけるためには親から離れて習い事などさせた方が良いのだろう、、と納得しているものの、、、
悩んだ結果、下の子が産まれてから二人で過ごしていない事もあり、彼をもう一度しっかり見つめたい思いで始めた「かあちゃんデー」
(夫の理解にも感謝)
息子と畑仕事をしたり、草木染めの手伝い、大好きな工作や虫捕り、その観察、干し柿作り、
などやっている事はたわいなく、
お互いのしたいことを話し合い、勝手に道具を触らない、出したら片付ける、何時でおしまい、など
基本的なルールの中ふたりで静かに作業する。
今までも母として愛情に関しては不足なかろう、と思っていたけれど、
この静かな数時間、眼差しを彼だけに向けてありったけの愛情を注げば注ぐだけ、
底なしの砂地のようにいくらでも吸い上げていく。
始終向けてくる満遍の笑みから多くの言葉をこぼしているよう。
そして、もうひとつ聞こえてくる声がある。
息子が自身と対峙し、実感を重ねていく喜びの声。
例えば大好きなカマキリの卵を取ってきて観察する。
ときめきながら観察しているうちに描いてみたくなり、拙い線でも必死に丸くてカサカサした感じや棒切れの線を描いて、
すると色が気になり出し色を塗り始める。
始めは見えるままに茶色のトーンで色をつけるが、枝の節にカビを見つけ緑色をさす。すると絵に表情が出てくる。
4歳という幼さもあるけれど、次第にどんどん色を変えていく。
「何を描いているのか」「描かなければならないのか」の観点より、
「この色で塗ると絵はどうなるだろう?」という、自分のひと塗りで変化していく実感の喜びがどんどん前に出てきて、もう夢中で色付けていく。
息子の制作風景を隣で見ていて、自分も昔デッサンに没頭していた時、
同じようにたったひと筆で絵の中のものが生きも死にもする感動が
勝手に手を動かしていたことや、今の機織りにも同じ感覚をみる。
この、誰にでもあるひととしての根源的な喜びが様々なものを生み出し、
あるいは様々な「なぜだろう」が多くの研究を導いてきたのだろうな、、と、
ひとの情熱は果てしなく、素晴らしいなぁ・・と、
息子の隣であのゴフスタインの言葉を思い出しながら、ついいつもの癖で呑気にぼんやりしてしまう。
ここに、社会的なルールや、関わる他者の気持ちを想うこと、など、
これから学ぶ事は本当にたくさんある。
あらゆる経験を重ね、その中で自分で自分を形成していくほかないのだろうけれど、
今、母としてしてやれる事が、果たしてこれで良いのかどうか、、、正直わからない。
4歳の息子に、今また新しい気持ちで子育て、
というより、ひとりの人間の根っこに新たに向き合い始めた、そんな気分でいる。
2018.10.22