銀鼠色の糸
2017 / 09 / 12カテゴリ:暮らし
祖母21歳と伯父2歳くらいだろうか
銀鼠色の糸
糸繰り機の回る音がカラカラと手から溢れ、音に誘われてひと筋の小径をゆく。
乗客のない銀河鉄道が止まっている。
おばあちゃんの家の月桂樹でこの糸を染めた夏の終わりの日、おばあちゃんは死んだ。
享年88歳だった。
69歳でアルツハイマー型認知症と診断されてから、祖母の時計は前に時を刻むことはなかった。
時を止めたまま命の火を燃やし続けた祖母の19年間を想う時、祖母の長男・伯父の面影が並んで浮かぶ。
変わり者偏屈伯父になんと言われるかわからないが、
祖母と伯父は19年間、死別までの時間をまるで銀河鉄道に乗って、群星の中を言葉もなくただただ共に駆け抜けてきたように私には思える。
いつか、物書きでもある伯父が自ら本にするだろう。
それでも祖母が亡くなった今、自分で言葉を綴ることで祖母と向き合う時間がほしい。
祖父母はここ海津で「クスリと洋品の店・松本薬店」を営んでいた。
まだ大型スーパーもない時代、ここらの人はみな「松本薬店」に買い物に来てくれていたと聞く。
昔々は漢方の薬屋だったとも聞く。
祖父母は2人3脚で、時代に合うように品を増やしたり制服や文具など子供向けのものも置いたり工夫しながら切り盛りしていた。
祖母はこの家の養女だった。
大阪で生まれ3歳の夏休みに、実の両親と、父の兄弟の家である海津に遊びに来てそのまま置いていかれた。
ー 今、私の息子も3歳。どんな心境だったか、測り知れない。
祖父を養子にもらい、3人の息子に恵まれ、
祖母は毎日店に立っていた。
私は幼い頃、店の椅子に座る祖母の膝の上に座って、レジや値札シールで遊んでいたのをよく覚えている。
記憶の中でも祖母はいつも店にいた。
幼い眼にうつる祖母は強く逞しい人で、筆で文字を書けば美しく、計算も早く、客とのおしゃべりの切り返しも早い頭のキレる人だった。
そんな祖母が69歳という若さで認知症を発症した。
中学時代、部活が忙しくほとんど海津に来れず、高校になり久々に会った祖母は、もう私が誰かわからなくなっていた。
鈍く重く突き刺さるショックだった。
それから、祖父母をなんとかしたい一心でひとり海津に通い始めたが、今思えばこの時間があったからこそ今この地に住んでいるのかもしれない。
高校帰り、制服のまま電車に揺られ2時間。
大雪の中、駅から海津の家まで歩きながら一面の銀世界に感動し足取りが弾んだ。
どんどん悪くなっていく祖母への無力な自分の虚しさに、浜でひとり焚き火をしながら暮れゆく夕日を眺めていた。
京都での大学時代は、手に入れたオンボロカーで朝、明けていく琵琶湖の中を走ることが心の拠り所になっていた。
そんなことに関係なく、日に日に祖母からあらゆる記憶が奪われていった。
もう昔の幼かった自分のことしか話さなくなった。
祖母は知らない人になった私が来ると、女学校時代の楽しかった話しか3歳で連れてこられた日の話しを、叔父が買って来て置いていく大きなシュークリームをいくつもほうばりながらする。
毎回、「こんなご馳走食べたことない」と話しの最中に度々感嘆の声をもらす。
伯父に話すと、「昔は食べれなかったからでしょう。」とそれだけだった。
伯父はそういった感情を表に出さない。
真夏に真冬の格好をするようになり、ご飯の心配が絶えず日に何回も米を炊いたり、大量の米を洗ったり、それでも米がないと不安がり常に怯えていた。
不思議なのがそれでも店に立つと、まるで発症前の時と同じように堂々とした祖母に戻り、お客さんとの簡単な会話を楽しんでいた。
けれどそれも段々できなくなっていった。
その光景を10代のまだ拙く敏感な時期に目の当たりにし、幼い頃感じた頼もしいおばあちゃん像は面影をなくし、いつしか、孫の私まで祖母を1人の不憫な患者のように遠巻きに見つめるようになっていった。
伯父は、祖母がどうなろうと淡々と海津に帰り、シュークリームを届け、施設に入ってからもまこと淡々とシュークリームと新聞片手に見舞いを続けていた。
それから祖母は長い間施設や病院を転々として、
その間に夫・祖父が死んだことも
末息子が結婚したことも
孫やひ孫たちが産まれたことも
今私たち家族が海津に帰って来たことも
何も何も知らないまま、最期は病室で静かに息をひきとった。
「身内の最期は立ち会った方がいいですよ」
伯父は13年前、病院で祖父が亡くなる前に電話をくれ、そう言った。
車をとばしたが、数分、間に合わなかった。
伯父は祖母の最期にも立ち会った。
そして、祖母の遺体と海津の家に戻ってきた時、私に一言、
「着いて50分後に死んだ。
待っててくれた。」
と言った。
ハッ、とした。
祖母の命はずっと暗い病室の中に灯っていたのではない。
揺らめきながら叔父に寄り添い、共に居た。
伯父のその言葉で、寝たきりだった祖母がついに命尽きたことを、私もやっと感じることができた。
今思う。
この土地に住み、昔祖父母と親しくしていただいていた方々から、いとも楽しげに祖母の若い頃の話を色々聞かせていただく内に、
幼い頃感じていたあの強く逞しい朗らかなおばあちゃんが私の中に戻ってきたことを、心から嬉しく、祖母を亡くした今改めて感謝、感謝の想いでいる。
カラカラ回りながら枠にあがっていく月桂樹で染めた絹糸は、まっとうな銀鼠色をしている。
闇の中で銀河の群星の中を走りきった、祖母と伯父の辿った道をひとり重ね合わせながら、
カラカラと枠上げをする。
外では秋虫が鳴いている。
53年前、今の私と同じ35歳の祖母も子育てしながら仕事しながらこの地でこの声を聴いていた。
おばあちゃん、
そして修ちゃん、
ありがとう。
2017, 9, 12